シルクロードの旅―3

7月31日(火)チャリン・キャニオン


AM7:30、起床。タブレットを使って、書きためた日記を家族に送ってみたら、成功した。国境のなせる技か。しかし、スカイプは実行できなかった。理由は分からない。これから2泊連続でキャンプになるので、その前に日記だけでも送れてよかった。


AM8:45、朝食。中国式朝食のバイキング。特筆する物はなく、最後に所望したお茶が、一番美味しかったくらいか。中国語でお茶を希望したのに、怪訝な顔をされたので一瞬あわてた。そう言えば、「お茶」の事を中国語ではティーではなく、チャーと言うのだった、と思い出して言い直すと、笑顔で用意してくれた。


AM10:00、中国銀行で、残った中国「元」をアメリカ「ドル」と、カザフスタンの「テンゲ」に両替する。700元が103ドルになり、その内、50ドルが17000テンゲになった。

1テンゲは、おおよそ3分の1円になる。


AM11:00コルガス(にある、中国側のイミグレーションで、出国手続きを行う。2列に並んでチェックを受けた。私の担当者は、パスポートだけを見て、私の顔をほとんど見てなかったが、私の隣でチェックを受けたジョアンナは、何度も何度もパスポートと実物の顔を見比べられていた。


そして別室へ呼ばれ、なかなか出てこなかった。30分ほどして出てきたジョアンナに「何があったのか」と聞くと、「職業欄にジャーナリストと書いており、写真を沢山撮っていたので、スパイの疑いを持たれたようだ」と言っていた。誠に神経質な国である。


AM11:40、トラック・バスに乗って出発したかと思ったら、同じ敷地内で、再びパスポートチェック!そんなことをして何の効果があるのか疑いたくなるが、それぞれの役割があるのだろう。


こうして見てくると、中国では、居なくとも良いと思われる役人の数が多すぎると思う。彼らがまともな人間なら、勿論やりがいなど感じられないだろうし、やがて、人として腐るしかないであろう。国としても大きな損失であるはずだ。


AM12:00、中国を出国。

AM12:20、カザフスタン時間に調整すると、2時間遅れのAM10:20、となる。カザフスタン側のイミグレーションで入国手続きを行う。この間の待ち時間に、コーラとパン(アップルパイのパイ生地の様なもの)を購入。450テンゲ。約150円。


AM11:30カザフスタンに無事入国。

PM0:20、路上で検問に会い、運転手のジョノがパトカーの中で尋問されていた。


PM0:35、出発。カザフスタンに入ると、晴れた空に大きな白い雲が、我々を歓迎するかのように立ち上がっている。そして、イスラム教のモスクが目に付くようになった。


歓迎しているような白雲(カザフスタン)


PM1:00、ランチタイム。丁度近所が市場になっており、一通り見て回る。色々な物と言うより、色々な人種の人が居て、それが面白い。中でも、日本人ではないかと思われる顔つきの人が多く、つい、日本語で話しかけたくなる衝動に駆られて、不思議な気持ちである。


スーパーで、ヨーグルト(260テンゲ、この後はTeと略す)とパン(30Te)を購入。ヨーグルトを飲みたいが、どれが良いかなと迷っていると、少女が横から来て、何種類か置いてある中から、1品をさっと迷わずに取っていった。私は「少女が迷わずに選んだ、それが美味しいに違いない」と思い、同じ物を冷蔵ケースから取り出した。結果は、少し甘くて飲みやすく美味しかった。


パンは、インドカレーのナンに似ているが、丸くて厚く硬い。少しちぎって食べてみると、何か懐かしい味がする。何の味だったかな、と考えて思い出したのは「乾パン」でした。この種のパンは、カザフスタンの国民食と言うことで、大きさは大小様々であるが、至る所で売っている。


市場で座布団を購入。500Te。バスの振動が大きいことは前にも書いたが、「これからの道のりは、それが更に激しくなるよ」と運転手のジョノが言っていた。今でも肉の薄いお尻が痛いのに、これ以上振動が大きくなったら耐えられないかも、と心配である。


市場を歩いていたら、大きな座布団を売っている店があった。そこのオバサンに「小さな座布団が欲しい」とジェスチュアーで表現すると、理解してくれたらしく、店の奥から小さな座布団を持ってきた。見て触ってみたら、まずまずの製品だったので購入を決断した。


更に市場を歩いていると、アダム夫妻が小さな店で何やら食べていた。その店では、羊の肉が丸ごと焼かれていて、香ばしいにおいが漂っていた。私はその羊の肉を少しだけ削いだ物を食べたくなった。


そこへマークがやってきて、「私が頼むからシェアーしよう」と言う。マークが頼んだ物は、アダム夫妻が食べていた物と同じ、羊の肉や野菜を包んだ物で、私が欲しかった羊肉だけではなかった。言葉が足りないと、意志の疎通が難しいと感じた次第。500Te


PM2:30、出発。予想通り、トラック・バスの揺れは激しくなって来た。舗装された高速道路でも、ポメラが叩けないほどの揺れだったのが、これからは、でこぼこの一般道を走ることが多くなる。「買ったばかりの座布団が、早速その効果をもたらしている」と思った直後に、私は座席から、はね飛ばされて通路に転がっていた。


シートベルトをしていなかったのだ。前方からキャメロンが走り寄って来て「マサ、大丈夫か」と抱き起こしてくれた。私は、心根の優しい若者達に支えられて、今回の旅を続けることが出来ている。特段の怪我はなかったが、予想以上に激しい上下振動(バンピング)である。


PM4:00、トイレ休憩。とは言ってもそこにトイレはなく、10軒ほどの露天商が、同じように西瓜とメロンを売っていた。リーダーのニンカが、西瓜とメロンを購入。今夜と明日のキャンプでのデザートである。


沢山の子供達が私たちの周りに集まってきた。ジョアンナが子供達に指芸を披露している。子供達は真剣に真似をするが結構難しく、なかなか出来ない。しかし、中には成功する者が居て、大喜びである。

露天商(カザフスタン)

PM4:10、出発。この後3時間ほど車は走るが、その間、牧草地、荒れ地と続いて、人家は見あたらない。

牧草地(カザフスタン)

川(カザフスタン)

荒れ地(カザフスタン)


PM7:00、キャンプ場に到着。ここは国立公園内の「チャリン・キャニオン」で、カザフスタンのミニ・グランド・キャニオンと言われている所だ。

日没のチャリン・キャニオン


テント張り終了(チャリン・キャニオン)


PM7:40、テント張り終了。晴天なれども風強し。

PM8:00、夕食。ライスにチリソース風味の具を乗せたもの。キャンプでの食事としては良い方だろう。食後はポメラ・タイム。

夕食の準備(チャリン・キャニオン)

PM10:00、就寝。夜空は晴れて、星も輝いているが、オーストラリアのウルル(エアーズロック)で見た満天の星空と比べると、かなり、控え目である。同じ星空でも、地域により大きく異なる事を知った次第。


8月1日(水)チャリン・キャニオン


AM5:30、起床。ポメラを叩く。夕べのテントも、シャワー無しで寝ていたので、暖かかった訳ではないが、就寝中のトイレは1回で済んだ。


AM7:30、お茶を飲みながら、朝食の支度が出来るまで懇談。此処の国立公園には、人数は少ないが、世界中から人が集まって来て、テントを張っている。我々の近くに居た人を紹介すると:


1、              スペイン在住のイタリア人夫婦。セダンタイプの乗用車の屋根にテントを乗せて走り、夜は、車の屋根に備え付けられたテントで寝る。見せてもらったが、快適そうに出来ていた。広さも、二人なら十分だろうし、雨に降られても、下から水浸しになる心配は無いわけだ。テントの価格は約1000ポンド(15万円)であるが、重いことが難点であると言う。カーボン製になると重量は軽くなるが、価格は上がるそうだ。

テントを乗せた車@(チャリン・キャニオン)


テントを乗せた車A(チャリン・キャニオン)


2、フランス人男性。スズキの650ccのバイクで走って来た。バイクの調子は順調だそうだ。フランスから来て、またフランスへ帰っていく訳だから、こういう人たちの旅行は、来る時と帰る時の道程は、当然変わる。往路が北回りなら、復路は南回りと言うように。

スズキのバイク(チャリン・キャニオン)


3、オーストラリア人夫婦。ヒッチハイクで来ていた。安く揚げるためにそうしていると言うが、本人達は全く苦にしていない様子だ。


4、キャンピングカーで来ていた人も居た。


AM8:00、朝食。ジャガイモ、スクランブルエッグ、ソーセージ、コーヒー、お茶。朝食には多すぎる位だ。

朝食(チャリン・キャニオン)


AM9:00、食後の後片づけ。続けて、一切のキッチン道具を洗い直し、整理整頓する。更に車内の清掃。ドライバーのジョノは、車の下に潜ってメンテナンスに余念がない。


そのジョノが、「あっ!」と叫んで額を押さえている。頭をどこかにぶつけたらしい。やがて出血が始まった。私は持ち合わせの消毒剤と綿棒を、リーダーのニンカに渡した。大事に至らなければ良いが。


AM10:40チャリン・キャニオンのハイキングに出発。確かに、その風景はミニ・グランド・キャニオンと言えるが、アメリカの西部には、もっと似た所(アーチズ国立公園)があった。


チャリン・キャニオン(1


チャリン・キャニオン(2


チャリン・キャニオン(3


AM11:40、私たちは、風景の写真を撮りながらどんどん下って行く。全行程は3Km程であろうか。行き着いたところには、キャニオンの間を流れるチャリン川があった。結構な水量があり、付近にはキャンプ場もあり、テントを張っている人たちも居た。


チャリン川


仲間の若い者の中には、予め用意してきた水着になって、水浴びを楽しむ者もいた。100Kgを優に越えるキャメロンは、まだ32歳だと言うのに、腹の肉がゴムバンドの上にはみ出している一方で、28歳で妻のアンドレアは、スタイル抜群の姿態を披露している。

キャメロンとアンドレア夫妻(チャリン・キャニオン)


しかし、彼女の身体の2カ所に入れたタトゥーは、どう評価したら良いのであろうか。首から下の背面と、臀部の左側面に、大きく2つの図柄が描かれているのである。夫のキャメロンにもタトゥーはあった。


今時のファッションと捉えるべきなのか、せっかく美しい肌を持ちながら、わざわざ汚くすることはあるまいに、と思うのは古い考えでござんしょうかねえ。


小柄で筋肉質のアダムは、柄模様の赤い水着を着用している。実は今朝、彼がその赤く、小さなパンティを持って歩いているのを見た時、「妻のパンティを持って、どこへ行くのかな」と、訝っていたのだ。その疑問が、今解けた次第である。


アダムの妻は同級生で28歳。体重は、アダムの2倍くらい有りそうな、如何にも肉感的な体格である。彼女が、身体にぴったり張り付いた、レギンスのパンツを履いていると、そこまで太る前に、何とか出来ないものかと思ってしまう。


しかし、彼女がショートパンツで歩いていると、そんなに太っては見えない変化が面白い。私は彼女の水着姿を期待したが、さすがに披露してくれず、残念でした。私は手足を水に漬けて、冷たい水を楽しんだだけで終わった。


PM1:30、お腹が空いてきたので、近くのレストランに行くべく歩いていると、テントの中から声を掛けてきたカップルが居た。私はそこに立ち寄り、暫く懇談した。


その二人は、ブルガリア人の男(46歳)女(30歳)であった。ヒッチハイクで旅行していると言う。もう何年もそんな生活を続けているらしい。生活は、旅のレポートを書いて、少々の収入を得、それで賄っていると言う。


ブルガリア人カップル(チャリン・キャニオン)


最近は「カウチ・サーフィン」とか言う、無料で宿泊させてくれる家が、ネットで公表されているらしい。私は、聞いたことはあるが、使用したことはない。ヒッチハイクで交通費は無料、カウチ・サーフィンを利用すれば、宿泊料も無料。後は食費があれば、世界中を回れる寸法である。すごい時代が来たものである。


二人とは、仏教、イスラム教等の話も弾んだ。仏教は哲学的だし、疑問を持つことも許されるのに対し、イスラム教は、ひたすら信ずるのみで、如何なる疑問も許されない。「私は仏教徒で、仏教の方が論理的であると思う云々」と。


二人は、日本にも来たことがある。しかし、普通のコースではない。九州の別府温泉、対馬、小笠原を訪問している。どこへ行っても日本人は暖かく歓迎してくれた。訪問する前の先入観を大きく裏切られた。「日本人はもっとドイツ人に似ていて、外国人を受け入れないのではないか」と思っていたそうだ。


「中国人は、飲食の時は親しく接してくるが、その時だけの事で、後は外国人を受け入れようとしない。次に日本を訪問する時は、北海道から沖縄まで行ってみたい」と言う。


私が、「英語話者のナチュラルスピードには、付いていけない」と言うと、私達もそうですと言う。ネイティブではない人の英語の方が聞き取りやすいと言う。ネイティブの人が話す英語は、こなれ過ぎていて、かえって聞き取りにくいのであろうか。


英語話者には大きく分けると3段階がある。1段階は、ネイティブのレベル。次は、ネイティブではないが、仕事に支障がないレベル。最後が、旅行なら何とかなるレベル。つまり、私のレベルである。そんな事を考える一時でもあった。


PM2:00、ランチを公園内のレストランで。ピラフ、サラダ、お茶、水。3500Te。1軒しかないレストランだから、少々高めでもやむを得ないか。味はまずまず、量はたっぷりでした。


仲間が休んでいる川岸へ戻る途中で、先ほど懇談したブルガリア人カップルの所を通ると、半分に切った大きな西瓜があった。「貰ったものだけど少し食べていかないか?」と言う。私のお腹は、既に一杯になっていたが、西瓜なら少しは食べられそうだったので、頂くことにした。


「今晩は何処に泊まるのですか?」と聞くと「ここの景色が気に入ったので、此処でもう一泊しようと思っています」と笑顔で答える。何処までも、その時の気分次第の旅である。こんな人生もあるんだな、と感心させられる二人連れではあった。


PM2:40、川岸に居る仲間と合流。私はそろそろ引き返したいのだが、皆は、此処にいたいようだ。黙って付き合うしかないか。


PM4:10、夕食当番のマーク夫妻が、やっと帰りの支度を始めた。それでも若者たちは、まだ動こうとしない。私達3人は、下って来た道をひたすら登って行った。来る時は、写真を撮りながら時間が掛かったが、帰りは上り坂ではあったが、ひたすら歩くだけだったので、50分程で帰着した。


PM5:00、ポメラ・タイム。

PM7:00、夕食。今日は、朝食、昼食とがっちり食べたので、あまりお腹が空いていない。少しだけよそって貰う。「おかわり」をしている者もいるのに。彼らは昼飯を食っていないのかな?チキンの肉が硬かったので、よけい食欲が湧かなかった。


PM9:00、テントに入って就寝。同じ場所での連続キャンプは、初めてである。今夜は風が強くなるかも知れない。


8月2日(木)チャリン・キャニオン〜アルマティ


AM5:00、起床。昨夜は、何度も突風が吹いて、テントが悲鳴をあげていた。ギシギシ、ミシミシと音がして、吹き飛ばされるかも、とハラハラした次第。リーダーにそのことを話すと、「もう少し、丈夫なテントを買った方がいいかもね」と言われた。ポメラを少々叩く。


AM6:00、朝食。バナナ2本、コーヒー、紅茶。

AM6:30、キャメロンが、ドローンでキャニオンの空撮をしていた。中国製で約10万円と言っていた。作品を見せて貰うのが楽しみである。トラック・バスの側に、尾を立てたサソリが2匹居た!


AM7:00、出発。国立公園を脱出するのに時間が掛かる。トラック・バスは、バンピングを最小限にしようと、ゆっくり走っている。歩くのと同じくらいのスピードである。それでも十分に揺れ、跳ねている。


普通の車やバイクなら、この程度のでこぼこ道なら、クッションが全てを吸収して走るのに、このトラック・バスは、小さなでこぼこでも、それを増幅させるかのように揺れまくる。なにがそんなに違うのか。よく説明を聞いてみたいものである。


でこぼこ道のチャリン・キャニオン国立公園


トラック・バスの内部


AM8:45、トラック・バスは、やっと国立公園の敷地から脱出した模様で、バスのスピードが少しばかり上がった。トラック・バスは荒野の一本道をひた走る。


AM9:50、トイレのない路上でトイレ休憩。男性はバスの左側で、女性はバスの右側で用を足すように指示がある。

AM10:10、出発。荒野の一本道は、地平線の彼方まで一直線である。



   
トイレの無いトイレ休憩(チャリン・キャニオン〜アルマティ)

荒野の一本道(チャリン・キャニオン〜アルマティ)


AM10:30、ほんの束の間、農地、人家、露店が現れた。

AM10:50、高速道路に入る。アルマティまで130Kmと表示されている。ロシア語のキリル文字が上段、英語が下段である。ウィグル自治区では、ウィグル語が上段、中国語が下段に表示されていた。


朝方涼しかった気温が、大分上昇してきたと見えて、トラック・バスの中に座っていても暑くなってきた。私は重ね着していた長ズボンと、長シャツを脱いで、短パンと半袖シャツになった。気温の調節はコマメにやるしかない。


AM11:50、進行方向左側(南側)に見えている山脈は何という名前だろう。8月だと言うのに雪を頂き、連綿と続いている。神々しく、雄々しく、峻厳でもある。もしかしたらこれが天山山脈なのか?天山山脈は、シルクロードを天山南路と天山北路に分かつ、大山脈で知られている。


ガイドブックで確認すると、此処から見える山脈は、天山山脈の支脈である、アラタウ山脈と言うそうだ。私の感は当たらずとも遠からずであったが、これが天山山脈ではないとすれば、もっとすごい山脈が有るわけだ。私の期待は膨らむばかりである。


PM0:30アルマティの市内に入るが、鉄道の高架橋に高さ制限で行く手を塞がれ、方向転換を余儀なくされた。


PM2:00、ホステル着。男女混合の6人部屋。スマホのライン、タブレットのスカイプがつながり、久しぶりに家族と連絡を取り合えた。中国が如何に情報制限をしているかが、この一件で明白であろう。


中国を脱出しただけで、なんと心が軽くなったことか。こんな事を実体験するために、シルクロードの旅に来たわけではないが、大きな副産物ではある。


PM4:00、シャワー。3日ぶりのシャワーは、本当に気持ちの良いものだ。

PM5:00、夕食。持参のチキンラーメン、パン、リンゴ。


食後、受付に行って、アルマティ郊外にある日本人墓地の話をし、「そこに行きたいのだが」と言うと、「そんな所はありませんよ」と言いながらも、ネットで調べてくれた。検索しながら受付の同僚と何やら話している。どうやらネットには、それらしいものが、有ったようだ。


「これから行くのですか?」と聞くから、「明日の予定です」と答えると、「明日なら私も休暇だから一緒に行けますよ。私も行ってみたいから」と言うではないか。一人で行くのは不案内で心細かったので、こんな有り難い話はありません。明日、11時の出発を約束して受付を辞した。


PM6:00、ポメラ・タイム。


PM10:00、就寝。


8月3日(金)アルマティ


AM6:00、起床。ポメラ。日記を家族に送信。

AM8:30、朝食、ビスケット風のパン(ほんのり甘く、美味しい)、バターパン、コーヒー。


AM11:00、アルマティの日本人墓地へ一緒に行くことにした、受付の女性が、約束通りに声をかけてくれた。本日の第一の諸天善神である。彼女の名前は、サンドガシュと言い、まだ19歳の学生だ。将来はカザフスタン語の研究をしたい。カザフスタン語の母音は9個有ります、と言う。ロシア語の母音は10個だから、似たようなものか?


今は、夏休みなので、ホステルのアルバイトをしている。頭には何もかぶっていないが、ムスリムですと言う。昨夜はホステルの夜勤で、今日は夜勤明けである。眠たいだろうに、申し訳なく思いながら、彼女の好意に甘える。


まず、徒歩で最寄りのバス停へ。次々とやって来るバスを数台見送ってから、目的地へ行くバスに乗り込む。150Te。好奇心旺盛の彼女は、私に日本に関する事を、いろいろ聞いてくるので、退屈しない。


AM12:0050分ほど乗ったところでバスから降りる。墓地の入り口は、すぐに見つかった。守衛さんに、日本人墓地の場所を訪ねると、「20分ほど歩くことになるが、大丈夫かね」と心配顔だ。


私達は「大丈夫です」と言って歩きだしたが、この墓地は雑木林の中にあって、広大であった。しばらく行くとT字路になっており、適当な感で、右に行く方を選択した。ところが、これが間違っていて、行き止まりになっていた。


T字路まで戻って、反対方向へ。行く先でまたも三叉路にぶつかり、どちらかに決めなければならない。根拠の無い感で、適当に歩いていると、そこに、二人目の諸天善神(30才位の女性)が現れ、日本人墓地へ案内してくれた。


そこは、雑木林の中の獣道を歩いて行くような所で、墓地の中でも最奥に位置しており、とても一人で行けるところではなかった。私達は幸運にも、無事に日本人墓地を見つけ出す事が出来た。


                            
日本人墓地へ(アルマティ)


二人目の女性は、「日本に非常に興味を持っている」と言っていたが、別れ際に彼女の口から「頑張って下さい!」と、日本語が発せられた。その時の私は、虚を突かれたようであった。彼女は単に日本に興味を持っているだけではなく、既に日本語の勉強もしているのではないかと思ったのである。


日本人墓地は、低い柵で囲まれており、生い茂った草に、今にも覆われてしまいそうな状態で、数百の白く四角い石が、置かれているだけの墓地であった。1つの石の下に、6人の骨が埋まっていると言うから、全部で数千体の遺骨が埋まっていることになる。日本人墓地のほぼ中央には、忘却に抵抗するかのように、「日本人埋葬碑」と書かれた質素な石碑が立てられていた。私はそれに向かって合掌し、記念に数枚の写真を撮って、そこを後にした。


日本人墓地(アルマティ)


日本人埋葬碑の横で(アルマティ)


墓地内の帰り道で、二人のムスリムに声を掛けられた。私が日本人であることが分かると、更に親しげに話しかけてくる。私が覚えたてのアラビア語で2、3の挨拶をすると、飛び上がらんばかりの喜びようで、ポケットから香水を取り出して「これをやるからもって行け」と言う。


サンドガシュと二人のムスリム(アルマティ)


そして「日本人捕虜は、大変良い仕事をして残してくれた。特に、ウズベキスタンにおいては、それが語り草になっている」と言うようなことを言っていた。


受付譲のサンドガシュの通訳で、若干の意志疎通が出来たが、彼らが早口で喋り続けたので、当直開けのサンドガシュは、頭痛がしてきたと言っていた。助かったのは、私が昼食に「地元の料理を食べたいと思っている」と言うと、近くにあるレストランを教えてくれた事であった。


PM1:00、サンドガシュと二人で、そのレストランに入り、焼き魚、シシカバブ、サラダ、パン、コーラを注文して食べた。いずれも期待した通りのお味でした。二人分で、4000Te。彼女は、「このレストランの値段は、少し高いと思います」と言っていた。


PM2:30、帰路のバスに乗る。150Te。サンドガシュは眠たくなったようで、自分は途中下車して家に帰り、寝たいと言う。そしてバスの車掌に、私が下車するバス停を教えてくれるように頼み込んでいた。


彼女は、バスに乗ってから、15分ぐらいで下車して行った。つまり、日本人墓地は、彼女の家からさほど遠くない所に存在していた訳だ。その事も、彼女がそこに興味を持った一因かも知れない。


PM3:30、私は、無事ホステルに戻ってきた。本当に有り難い1日であった。バスに乗っている時間は50分程であるが、その半分の時間は、アラタウ山脈に向かっての、かなりの上り坂である。つまり、ホステルは、高台に建っている事が分かった。


PM4:30、メールをチェックし、ポメラに向かう。

PM7:00、今日から我々のグループに合流する9人を迎えて、日本食レストラン「侍」で夕食。「日本食」に引かれて参加し、「レインボウ・スシ」なる物を注文して食べたが、全くだめ!イミテーションずくめでがっかりでした。


ワサビは人造物、シャリには芯があり、すべての握りに、マヨネーズが入っており、ショウガは、ただ赤くなっているだけ。日本でなら、絶対に口にしないが、ここは、外国、カザフスタンだ。鼻を摘み、舌を殺して飲み込む。


ジョアンナが、「日本で食べるものと違うと思うから、期待しない方がいいと思うわよ」と前もって言っていたが、その通りであった。私も海外で食べる日本食に、期待はしていないが、希に期待を裏切って美味しいことが有るので、ついつい注文してしまうのだ。


PM8:00、スーパーに買い出しに行く。水、ジュース、ヨーグルト、パン。寿司の口直しにアイスクリーム。美味しそうな果物が置かれていない。1200Te


PM9:00、ホステルに帰着し、シャワーを浴びる。ここのホステルには、多分、30人程の旅行者が泊まっていると思うが、トイレと一体型のシャワー室が2カ所しかない。しかも、1カ所のシャワーは、お湯がでない! 


そこでさながら椅子取りゲームになる。シャワー室が空いたので、着替えとタオルを取りに自分の部屋に行っていると、もうその間に誰かに入られてしまう。だから、予め用意して、シャワー室の前で待っているしかないのである。私が「毎日がサバイバルゲームである」と言うのは、こういう所にも1因がある。


PM10:30、就寝。


8月4日(土)アルマティ〜タムガリ


AM6:00、起床。

AM7:00アルマティを出発。今日からトラック・バスは、19人が乗り合わせる。まだ座席は1人が2席を占有するだけの余裕があるが、車内の雰囲気は、今までのリラックスムードとはすっかり変わった。つまり、後からゆっくり乗ってくる人は、空いている座席に座るしか無く、座席を選べないのである。

 

アルマティから天山山脈を望む


出発に当たり、運転手のジョノから、道中気をつけるべき種々のご高説を賜った。北京から参加している我々には、2度目の話である。


AM9:00、トイレ休憩。敷地内の小さな建物の看板に書かれたロシア語のキリル文字を、1字1字読んでみると「ミニマーケット」と読めた。キリル文字は英語のアルファベットとは異なるが、音読すると、通じることがある。これもその例であろう。

トラック・バスは、草原の中をひた走る。カザフスタンに入ってからは、現地ガイドは居ない。現地ガイドの存在は、中国独特のシステムで、そのように義務付けられているのだ。

大草原をひた走る(カザフスタン)


AM11:00、本日のキャンプ場、「タムガリ」に到着し、ランチタイムに入る。皆、持ち合わせの食料を開いて食べる。私の昼食は、パン、ジュース、ヨーグルトであった。

タムガリに到着(カザフスタン)


タムガリにて(カザフスタン)


AM12:00、太陽が照りつける中、世界遺産となった岩絵の宝庫を見学に出かける。見学料が1500Te。この日から合流した9人の内の2人と歩いた。2人は、オランダ人女性で、ディディ64歳とエルナ53歳である。共に教師であり、旅友達であると言う。

岩絵を見学に(タムガリ・カザフスタン)

ディディとエルナ(タムガリ)

歩きながら、「日本は、江戸時代に長崎の出島においてオランダとだけ貿易をしていたんですよ」と言う事を話したが、二人のオランダ人は、そのことを知らないようであった。日本にとっては重要なことでも、相手国のオランダにとっては、取るに足りないことであったのかも知れない。


この渓谷には青銅器〜鉄器時代にかけての岩絵がたくさん残っている。ヤギ、羊、馬などの動物、狩猟風景の絵などが彫り込まれている。しかし、強い太陽に晒されて、今にも消え入りそうである。

岩絵(1)(タムガリ)


岩絵(2)(タムガリ)

オーストラリアのカカドゥで見たときは、もっとカラフルであったが、カカドゥの岩絵は、洞穴の中にあるので、太陽や風雨に直接晒される事が無く、美しさが保たれているのであろう。ここの岩絵は岩に彫っただけで、色は付けていないようである。崖下の低地も、今は乾燥して水が無いが、昔は水があって、人々が生活をしていたものと思われる。


PM2:00、キャンプ場に帰着。

PM2:30、ポメラ・タイム。

PM4:30、懇談。


PM5:30、夕食の担当に付く。今日のメニューは、スパゲティ・ボロネーズ。お湯を沸かし、ニンニクやタマネギ等の野菜を刻む、19人分だから結構な量になる。大鍋で炒めて細切れ肉を混ぜて、味付けをする。更に、この内5人は、ベジタリアンだと言うことで、別メニューだ。


リーダー自身がベジタリアンだから、自分たちの分は、勝手に美味しそうな物を作っている。


PM7:15、夕食の開始。各自が抱えている皿に、スパゲッティをよそい、ソースを掛ける。食後は皆が「美味しかったよ」と言ってくれたが、正直に言うと、後片付けまでやらされることは、72才の身には過剰負担になっている。少し変わってくれないかな!食後の果物に、メロンを切って出した。切り方が絶妙だと、感心して見ていたらしい。


PM9:00、就寝。疲れて、テントに倒れ込んだ。


8月5日(日)ビシュケク


AM5:00、起床。ポメラ。昨日の夕食に続けて、朝食の準備。お湯を沸かし、パンとシリアル、コーヒー、紅茶の支度をする。合間を見て、テントの撤収。昨夜は、疲れていたのか、一度も起きることがなかった。


AM6:00、朝食。食後に西瓜を切って出し、食器やコンロをトラック・バスに片付ける。見たところ、欧米人は、老若男女を問わず、キャンピングに慣れているようで、万事手際よくやっている。


AM7:00、出発。車中は、ガイドブックのキルギスタンのページを読む。日本よりも面積は狭いようだが、見るべき所は多そうである。しかし、限られた日数の中で出来ることは、自ら限られてくる。我らのトラック・バスは、草原の一本道を、ひた走っている。

草原の一本道(カザフスタン)


AM9:10、トイレ休憩。相変わらずトイレは無い。お店でボトル水を1本。200Te

AM9:25、行く手に白銀の峰々が見えてきた。この当たりの山脈は、何という名前だろう。ガイドブックに依れば、天山山脈の支脈で「キルギス・アラ・トー」と言うらしい。

AM10:30カザフスタン側の出国手続き。

AM11:30キルギスタン側の入国手続き。わずか1時間で両国の手続きが終了。


キルギスタンに入って、トラック・バスが来るのを待っている間に両替をした。小さな両替所の窓口で、カザフスタン・テンゲの残金2200Teと、100USドルを差し出して、キルギスタン・ソム(Com7213Comを手にした。計算書は貰えなかったが、まずまずのレートだと思う。1Comは、約1.3円になる。


両替を終えて、木陰のベンチで休んでいると、若い女性が、私よりも、更にたどたどしい英語で声を掛けてきた。

彼女は「24歳、法律を学んでいる大学生。テレビカメラマンの夫(27歳)との間に、息子が一人居る。ムスリムである。今日は、夫がカザフスタンから帰ってくるので、迎えにきました」等と話してくれた。日本人とよく似た顔つきの、理知的な女性と感じられた。

夫を迎えに国境へ(キルギスタン)

AM12:00、国境を越えて、ほんの2030分走ると、首都のビシュケクに入った。首都がこんなに国境近くにある事は珍しいと思う。


PM0:20、ホステルに到着。今日の泊まりは、「アップル・ホステル」と言う、清潔感に満ちたホステルである。ただ、難点が一つ、ドームに12人が詰め込まれた。ロンドンのホステルで大勢が詰め込まれたドームがあったが、もう少し広く、余裕があった印象がある。


チェックインは、午後2時と言うことで、暫く待機しなければならない。私はその間に、トラック・バス内のモップ掛けを行った。これは、夕食、朝食当番者の仕事である。


PM2:30、近くのスーパーへ買い物に行く。カップラーメン、バナナ、アイスクリーム。103Com。このスーパーにも、美味しそうな果物がない。昼食は、これらで済ます。昼食後、シャワーを浴びる。キャンプ後のシャワーは、スッキリして本当に気持ちが良い。その後、ホステルに洗濯を依頼する。


PM5:00中央市場へ冷やかしに出かける。どこにでもあるような市場で、特筆することはないが、そこにはキルギスのパンが山積みになって売られていた。そして、とても可愛い娘さんが露天の売り子に居たので、写真を撮らせて貰った。

キルギスのパン(ビシュケク)

中央市場(ビシュケク)

初めは「写真を撮ってもいいか」とカメラを向けると、「イヤだ」と言う表情であったが、側にいた母親に「良いじゃないの、撮らせてあげなさいよ」と言われると、笑顔でこちらを向いてくれた。

可愛い娘さん(ビシュケク)


PM7:30、夕食。ヌードル。120Com。汁のあるヌードルを食べたかったのだが、汁の無い物が、たっぷりと提供された。半分はスコットとキャメロンに食べて貰った。


PM8:00、帰着。中央市場に行く前に頼んでおいた洗濯物が干してあり、もう少しで乾きそうである。200Com。ボトル水、25Com


PM8:30、明日の日帰り旅行をアレンジしてくれているマークが、ポメラを叩いている所に集金に来た。500Com。一台のマイクロバスをチャーターして行くので、料金は割り勘である。安くて助かる。


PM10:30、就寝。


8月6日(月)ビシュケク


AM6:00、起床。廊下で足の爪を切っていたら、受付の女性から「此処ではなく、ベッドルームでやって下さい」と注意された。私は、まだ皆が寝ているし、電気もつけられないから、邪魔をしないように気を使ったつもりなのに。次に誰も居ない談話室へ行って、爪切りをしていると、またさっきの女性が来て同じ事を言う。私は、洗面所へ行って爪切りを完了させた!


AM7:30、朝食。昨日、夕食を食べたレストランが朝食の会場である。レストラン付きのホステルは、初めての経験である。会場に行ってみると、10品ほどのメニューが書かれており、その中から希望の物を選択する仕組みだ。


私は、ソーセージ、ジャムパン、目玉焼き、コーヒーのコースを選んだ。目玉焼きは2個も付いてきたが、朝からそんなに食べられません。半分を残して終了。こんなに豊富な朝食を出されたことは、初めての経験である。


AM8:30、日帰りハイキングへ出発。目的地は「アラ・アルチャ自然公園」。ガイドブックには、「日本の上高地を何倍も大きくしたような偉容である」と紹介されている。そんな山が、首都ビシュケクから30Kmの所にあり、1時間ほどで到着するとは、日本では想像できない。首都の東京が松本にあると思えば、上高地との距離感は似たようなものになるか。

アラ・アルチャ自然公園入り口(ビシュケク)

18人が参加しているから、ツアーの殆ど全員だ。高度2000m辺りを歩くので、長袖を着て出かけた。しかし、窓の開かないマイクロバスに、18人も詰め込まれたので、狭い座席に座った瞬間に汗をかきそうになり、長袖のシャツを脱いだ。


AM9:40、自然公園の入り口に到着。早速登り始めるが、思ったより急な登りで、ハイキングという感じではない。1時間も登ると心臓が飛び出しそうになった。通称「ハート・ブレイク」の岩の所で、我々シニア組は、下山して、アル・アルチャ川沿いを歩こう、と言うことになった。

アラ・アルチャ自然公園の絶景(ビシュケク)


AM10:40、下山を開始。登りが急であった分、下りも急である。慎重に足を運ぶが、靴の底が思う所に、思う角度で降りていかない。何度か滑って尻餅をつく。ニュージーランドから来ている、往年のシェフ、ジョン(71歳)は、腹が出ている割には、足の運びがしっかりしている。


私が「随分しっかり歩けていますね」と声を掛けると「今、こうやって歩けているのは、ラッキーなんです。実は私の足には、膝と大腿骨にボルトが2本入っているのです」と言う。人は皆、見ただけでは分からない人生を抱えているものだ。


同年輩であろう奥さんのスーザンも元気そうだ。「妻は、最近まで牧畜をやっており、トラクターの運転もしておりました」と言う。そう言われると、何か逞しさを感じてくる。こういう人にとっては、キャンプなんかお手の物である。


AM11:40、下山して、川沿いを歩いていると、「カザフスタンからピクニックに来ました」と言う家族に会った。日本の上高地と比べると、来園者の数は、桁が2つ、3つ少ないが、それでも三々五々、散策を楽しんでいる。

カザフスタンから来た家族(アラ・アルチャ自然公園)


上高地の風景と比較するなら、この川沿いの散策の方がより近い風景であろう。公園の入り口から始まった登山道は、いきなり、涸沢カールから槍ヶ岳を望むような峻厳なコースであった。

キルギスの上高地(アラ・アルチャ自然公園)


PM0:30、木陰に入って昼食。食材は、持参のバナナ、パン、コーラ。バナナの味はイマイチ、パンはパサパサ、と残念な昼食でした。


PM1:00、一人で川沿いの緩やかな登り坂を歩いて行く。山の頂上付近に氷河を頂く川の流れは速く、水量も豊かである。上高地の梓川の緩やかな流れとは比較にならない。逆に、河童橋は堅剛な造りで、人の行き交いが絶えることはないが、アル・アルチャ川に架かっている橋は、人が2、3人乗ると、折れはしないかと心配になるような代物である。


豊かな水量(アラ・アルチャ自然公園)


心細い橋(アラ・アルチャ自然公園)

峡谷の間を流れてきた水が川幅を広げ、絵になる風景のところで写真を撮り、公園の入り口へ戻ってきた。

峡谷を望む(アラ・アルチャ自然公園)


PM2:00、公園の入り口には、規模は小さいが、上高地の帝国ホテルを思い浮かべるような、赤いレストランが建っている。私は、暑さと喉の渇きで、ヘトヘトに疲れていたので、このレストランで休みたいと思った。


   
上高地の帝国ホテルを思い浮かべる(アラ・アルチャ自然公園)


しかし、道路の向かい側には、移動式の建物であるユルタが在った。私はまだその中に入った事がなかったので、興味をそそられユルタを覗いた。そこには少女と母親らしい姿があり、ユルタの中の装飾は、見事であった。

ユルタ(アラ・アルチャ自然公園)


まもなく母親が居なくなり、少女と私だけになった。私は、なにを注文したらいいのかも分からなかったが、とりあえず「コーヒー」を頼んでみた。何とか通じたようで、彼女はコーヒーの支度にかかった。35Com


年齢を聞くと、これも推測だが、15歳。学年は10年生。つまり、日本人なら高校1年生と言うところかと判断した。やがてお婆さんとお爺さんが入ってきて、ソファーに寝ころんでいる。外は暑いし、この中は日陰になって、涼むには最適である。


慎重に聞いてみるとお婆さんは80歳で曾祖母さん、お爺さんは60歳でその息子である。お爺さんは、私が日本人だと分かると、興味を示してきて、共にカメラに収まったり、身振り手振りで、「キルギスタン人と日本人の顔は似ているね」と言ったり、何かと好意的である。


少女は、おそらく習いたての英語で何とかコミュニケーションを取ろうと頑張っている。その仕事ぶりは大変好感の持てる振る舞いであった。お水が欲しくて「ウォーター」と言ってみたが通じない。「ワダ」と言えば良かったのだ。


彼女はボトルを持って外へ出て行き、すぐに戻ってきた。ボトルには既に一杯の水が入っていたが、買ってきたのでもなさそうだし、どこから持ってきたのだろうか、最後まで分からなかった。お爺さんも飲んでいたので、川から酌んできたとか言う変なものでは無いと思うが。


休憩時間が長くなったので、紅茶を追加で注文した。「ティー」ではなく「チャイ」と言うべきであった。こちらは10Com。「そんなに安い値段で良いのかい」と確認したくなるような値段であった。少女ともカメラに収まって、楽しく過ごしたユルタを後にした。

ユルタの少女と(アラ・アルチャ自然公園)


PM3:00、ユルタで涼み、コーヒーとお茶を飲んで、喉の渇きを癒した私は、グループに戻って合流した。皆も疲れたようで、草の上で寝ころんでいた。山の上の方に行った人の写真を見せて貰ったが、私の方がいい写真が多かった。


PM3:3018人を乗せた、すし詰めのマイクロバスで、帰路へ。私は、疲れとバス内の蒸し暑さとで、いつの間にか眠っていた。市内まで戻ってきた時、普段は活発なアメリカ人のミシェルが、気分が悪くなったと言って、車外に出てうずくまっていた。疲れと暑さが原因であったようで、間もなく気分が回復したのは良かった。


PM4:30、ホステル着。ポメラ・タイム。

PM7:30、隣のレストランで夕食。餃子を大きくしたような物を2個と、ソーセージ。


PM8:00、シャワーを浴びようと、シャワー室へ行くが、お湯が出てこない。他を当たったが同じであった。皆が使う時間だから、お湯が少ないのかも知れない。私は諦めて、ぬるいシャワーでおしまいにした。


PM8:30、ポメラ・タイム。

PM10:00、就寝。


8月7日(火)ビシュケク


AM6:00、起床。

AM7:30、朝食。前日と同じレストランで、同じメニューを注文。

AM9:10、乗り合いバスで出発。55Com。オランダ人のディディが、腹痛で行かれない。始発のビシュケク駅から終着駅のトクマクまで、約1時間40分の間、バスの中で様々な人間模様を観察することが出来た。


まず、全体として非常に感じが良い。若い人は年輩者に、男性は女性に、ごく自然に席を譲り合っている。始発駅から終着駅まで乗っていたのは、我々5人だけで、他は途中で乗ったり、降りたりしていく。


18人も乗ると座席は満席になり、立ったまま乗っている人もいる。多いときは、乗降口のわずかな空間に10人も立っていた。身動きできないほどの込みようだが、乗り降りは互いに譲り合ってスムーズである。


どこかの国の、我先にと、押し合い、へし合いの光景を見ることは一度もなかった。彼の国には、「文明国らしく、誠実さを持って云々」と、モットーが街路の至る所に、張り出されているが、何の効き目もなさそうである。


しかし、此処キルギスタンでは、そのような張り紙はどこにも見あたらない。国民が自然と感じの良い振る舞いを見せてくれているのだ。民意の高低・優劣を感じる光景であった。


もう一点は、ムスリムについて。この国の人は大半がムスリムである。しかし、その衣装は様々で、頭にヒジャブを被っている人も居れば、被らない人もいる。被っていても、その色、柄模様は自由である。


服装も自由で、必ずしもロングドレスでなくとも良いようだ。だから、「私はムスリムです」と言われなければ、そうであることに気がつかない。


この国では、顔の風貌が日本人に似た人が多いのだが、心の持ち様まで似ているのであろうか。ユースホテルのスタッフの働き方を見ていても、皆がテキパキト動いているので、いわゆる階級なる物があるようには感じられない。


AM10:50、乗り合いバスは終着駅のトクマクに着いた。ガイドブックによると、目的地の「ブラナの塔」までは、此処からタクシーに乗り換えて行く。タクシーを1台チャーターすると、片道500Comが相場である、と書かれている。


我々は、そのつもりで居たのだが、乗り合いバスの運転手から、「往復1000Comで話に乗らないか」と相談を持ちかけられた。乗り合いバスが、急遽タクシーに早変わりである。


我々にとっても、別のタクシーを探す必要がなくなるし、料金も相場並だし、皆が同意して運転手の話にのることにした。思いがけない出来事である。運転手にとっても、我々が見学している間は、身体を休めて、ゆっくりと昼食も取れるだろうし、お互いにハッピーな交渉ではあった。屋台で饅頭、40Com


AM11:10、タクシーは20分ほど走って、目的地、ブラナの塔に到着。入り口で見学料を払う。一人、70Com。まず塔に向かう。現在の塔の高さは24mで、1974年に修復されている。かつては45mあった塔の上の部分は、1516世紀の地震で崩壊したと言う。

ブラナの塔(ビシュケク郊外)


塔は屋上まで登ることが出来る。途中までは外階段だが、そこからは内階段である。その階段は、靴の底が半分しか乗らない、狭く小さな階段であった。しかも中は真っ暗闇なので、手探りしながら登るしかない。


階段の数は48段であったが、途中ですれ違いの出来る余裕はない。途中でパニックに陥りそうな気分になりながらも、何とか屋上までたどり着いた。屋上からの見晴らしは悪くはないが、周囲は何もない野原であるから、これと言った感動もない。

ブラナの塔の屋上にて(ビシュケク郊外)

ただ、1000年の歴史に思いを馳せれば、また感慨は別である。此処で発見された石に彫られたアラビア文字の内容から、ここは10世紀から13世紀のカラ・ハン朝の首都の一つ、バラサグンと推定されている。

石に彫られたアラビア文字(ブラナ・ビシュケク郊外)

確かに、敷地内の野外博物館には、内容までは理解できないが、アラビア文字で書かれた古い石碑があり、イスラムが繁栄していた時代を偲ぶことが出来た。最後に小さな屋内の博物館で、此処で発掘された出土品を見学し、世界遺産のブラナの塔を後にした。コーラ、25Com

ブラナ野外博物館(ビシュケク郊外)


AM12:20、待機していた乗り合いバスのタクシーに乗り込み、トクマクまで戻る。そこで、運転手にタクシー代として1000Com(一人当たり200Com)を支払い、そこからは往路とは逆に、乗り合いバスとして引き続き乗車する。バス代、55Com。ジュース、20Com



AM12:40、臨時のタクシーがトクマクに到着。

PM1:00、タクシーが乗り合いバスに変身して発車。

PM2:30、ビシュケキに到着しホステルへ。シャワー・タイム。


PM3:30、メールチェック、ポメラ。

PM5:30、スーパーへ買い出しに。明日から連続5夜、キャンプになる。水、菓子、カップラーメン、牛乳。335Com


PM7:00、ポメラ、日記を家族に送信。

PM8:00、夕食。カップラーメン。食欲なし。疲れたか?

PM9:00、就寝。


8月8日(水)ジェティ・オグズ


AM5:30、起床。ポメラ。パッキング。

AM7:00、朝食。3連泊のホステルで、3連続で同じメニューの朝食。10品から選択できるのだが、結果として毎朝、同じ物を選んでいる。


AM7:30、出発。アメリカのシアトルから来た、「アビー」と言う30歳くらいの女の子は「私はこの辺に座りたい」と言って、既に置いてある荷物を動かして、その席に座ろうとしている。なかなかの心臓の持ち主である。


後から戻ってきた荷物の持ち主、ジョアンナは、暫く窮屈そうに隣に座っていたが、やがて別の席に移って行った。つまり、先に来て確保していた席を乗っ取られ、追い出されたわけだ。シルクロードの旅には、若い女の子でも、これくらいの図々しさが必要なのかも知れない。


AM9:30、トイレ休憩。アイスクリーム、60Com。コーラやバス代と比較すると、非常に高く感じる。しかも、美味しくなく、半分食べて捨てた。


今日のバスは、峠を越えて東南東の方向へ走っている。つまり方角は、西ではなく東へ逆戻りしている感じである。今の景色は、峡谷に道路と川と鉄道の線路が、並行して走っている状況である。思わずカメラを取り出す。この列車は、ビシュケキ〜バルクチ間を夏だけ運行されている。

峡谷に道路と川と鉄道が(ビシュケキ〜バルクチ間)


AM11:30、青く美しい湖が見えて来た。イシク・クル湖と言う。この湖については「地球の歩き方」に詳しく書いてあるが、一見しないことには、それをイメージすることが難しい。暫く、「歩き方」を引用する。


ソ連時代、イシク・クル湖は、外国人は立ち入り禁止で、まさに「天山山脈の山ひだ深くに隠されている幻の湖」だった。天山の銀嶺に縁取られた湖で、”中央アジアの真珠”ともいわれている。真っ白な万年雪、氷河を頂いた屏風のようなふたつの山並みに囲まれている。北側の屏風はクンゲイ・アラ・トー、南にそびえるのはテルスケイ・アラ・トー、天山山脈の最高峰ポベーダ山(7439m)へと続いている山並みだ。そして湖は東西約180Km、南北約3070Km、周囲約700Kmで、琵琶湖の約9倍も大きく、湖の色は吸い込まれるように青い。キルギスの海といわれるのももっともだ。


今日、我々のバス、はビシュケキを出発して既に4時間走り続けている。此処から今夜のキャンプ場に着くまで、約6時間半、車窓の左側にこのイシク・クル湖が見え続けている。大きな訳だ。


こんなに大きな湖が、幻の湖と言って公にされずに来たと言うことは、如何に天山山脈の懐が深いかと言うことの証明にもなろう。天山山脈の長さは当然、その幅も半端ではない(長さ:2500km、幅350500km)。何と言っても、これだけ大きな湖が、天山山脈の「山ひだ」に隠されていたのだから。


そして、このイシク・クル湖に付いては「玄奘三蔵がインド行きの途中に寄り、湖の記録を残している。また、シルクロードに強い関心をもっていた作家、井上靖氏も訪れることができなかった」と「歩き方」に書かれている。


PM0:45、ランチタイムと言うことでバスは停まったのだが、手頃な食堂がない。苦し紛れに入った食堂で、スープを注文したが、出てきたのは冷たいスープで、美味しくなかった。残念!口直しにティーを。60Com。この間、近所の少女が2人して、私の相手をしてくれた。言葉は通じないが、笑顔を向けてくれるだけで嬉しくなる爺さんです。


近所の少女(イシク・クル湖付近)


PM1:30、出発。車窓の左側は、イシク・クル湖が続いている。大小様々の浜辺には、湖水浴を楽しむ人々がいる。車で来て、テントを張って楽しんでいる家族も見られる。此処は、リゾート地でもあるのだ。


PM4:00、トイレ休憩。深く汚い、ボットン便所が1つだけ。少しでも臭いを減らす為に、暫く呼吸を止めて、用を足す。


PM6:00、キャンプ場着。テントを張っていると、近所の子供たちが寄って来て、一緒に写真を撮りたいと言ってくる。中には大学生も居て、盛んに英語で話しかけてくる。国際交流の一時である。

キャンプ場(ジェティ・オグズ)


国際交流の一時(ジェティ・オグズ)


ポメラ・タイム(ジェティ・オグズ)


PM7:00、夕食。今日の料理は、モロッコ料理のクスクスで、とても美味しかった。しかし、食事中に図々しい近所の男が居座って、「夕食を俺にも分けてくれ」と言って動かない。仕方なく分けてやった。


PM8:00、ポメラ・タイム。

PM11:00、就寝。雨音がしてきた。大降りにならないことを祈る。すぐ側を流れる川の水音が結構大きく、睡眠を妨げている。気温も以外と下がっているのか、寒く感じて寝付かれない。1時半にトイレに起きた後は、トレーニングウエアを着て寝袋へ。

8月9日(木)ジェティ・オグズ


AM6:00、起床。ポメラ。


未明の月(ジェティ・オグズ)


AM7:30、朝食。バナナ、シリアル、西瓜、コーヒー。

AM9:00、シニア組で散策に出かける。地理感が無いので、取りあえず「ジェティ・オグズの奇岩」方面を目指す。


ガイドブックには、それなりの案内が書かれているのだが、地理感がないため、どこをどの様に行けばよいのか皆目見当がつかない。しかし今回ばかりは、地理感を全く必要としなかった。


なぜなら、ゆっくり2030ほど歩いて行くと、そこに目的のジェティ・オグズの奇岩が見えて来たからである。我々のキャンプ場から、心臓が裂けた形の岩が見えるが、その反対側が「ジェティ・オグズの奇岩」であったのだ。

ハート・ブレイクの岩(ジェティ・オグズ)


ジェティ・オグズの奇岩(1


ジェティ・オグズの奇岩(2


ガイドブックには「町からは、バスに乗り、途中下車して徒歩で10Km」とか書いてある。我々は1Kmほど歩いただけで、目的地に到着したのだから、如何に山奥まで来て、テントを張っているかを知った次第である。


ジェティ・オグズのよく見える所で、休んでいると、地元の子供たち4人が寄ってきた。小学校に上がったかどうか位の年頃である。私は、彼らに親近感を持ったので、持参のクッキーを1袋開けて、子供たちに分け与えた。


牛追い少年(ジェティ・オグズ)

4人の悪ガキ(ジェティ・オグズ)


子供たちは喜んで食べ、我々の周りに居続けた。その内、彼らの目つきから何となくあどけなさが消え、獲物を狙うような目つきになってきた。私はマサカとは思いながらも、警戒して、芝生に置いてあったカメラやスマホを引き寄せた。


その直後、一人のガキが、警戒してなかった女性のバッグを掴んで走り去ったのである。女性はすぐに気がついて後を追いかけたため、そのガキはバッグを手放して逃げていった。油断も隙もあったものではない!


AM12:00、私たちは、もう少し散策を続け、昼食を取ることにした。小さなレストランに入り、私は、スープを頼んだ。昨日のランチではひどいスープに出くわしたが、今日はどうか?


結果は、当たり!ジャガイモが数個と、羊の肉が数個入ったスープは美味しくて、お代わりしたい位であった。これでスープの勝敗は、1勝1敗である。ファンタと併せて165Com


PM1:10、キャンプ場へ帰着。ポメラ・タイム。

PM5:00、仲間と懇談。今日の行動について、語り合う。我々は、近くの山を散策したのだが、若い連中は、バスとタクシーを乗り継いで、イシク・クル湖へ行き、泳いで来たと言う。


PM6:00、夕食。今日のメニューは、ナシゴレン。インドネシアでポピュラーな料理だと思っていたが、元々は、オランダ料理だそうな。そう言えば、第2次世界大戦前、日本が統治する前のインドネシアは、オランダの植民地であったのだ。僅かに甘く、ピーナツバター風味で味付けされたソースは、美味しゅうございました。


PM7:00、大きなテントの下で、全員集合のミーティング。なにやら、深刻な雰囲気になっていく。ナチュラルスピードで話される英語の正確なリスニングはできないが、大雑把な流れは理解できる。大要は次のようだ。


つまり、「旅程の変更が行われる場合は、その事を事前に全員に知らせて欲しい」と言うことだ。リーダーとしては、そのつもりだったようだが、ジョアンナの抗議は、具体的だった。


曰く、「オプショナルの予定を楽しみにしていたのに、旅程が変わったので、その分が無くなってしまった。しかもその理由を聞いても、大変素っ気ない返事で、とてもツアー料金に見合うだけの事をして貰っているとは思えない」と。どちらも折れることがなく、段々ヒートアップし、ミーティングは長時間になってしまった。


ジョアンナの形相は、普段のにこやかな顔からは想像できないほどの険しい顔になり、目がつり上がって、ヒステリー気味であった。夫のマークは妻の肩を持っていたが、「この顔が夫のマークに向けられた時」を想像したら、「マークも大変だな」と同情せざるを得なかった。


良く理解できないやり取りを聞いているだけの私は、夜の冷気に、身体が冷えて来た。一人、二人と上着を取りに自分のテントへ行く。私も、我慢の限界が来て、上着を取りに行った。戻ってくると、ミーティングはお開きになったようで、皆が立ち上がって散って行った。


アンドレアに「結論は出たのか?」と聞くと「分かりません。継続審議のようです」と言っていた。細かいことが理解できず、ただ言われることを、忠実にこなしていくだけの私も、何となく「客である私が、リーダーから指示されているような」馴染めない言動を感じてはいた。


様々のことが、リーダー以上に分かってしまう人には、不満が出てくるのかも知れない。団体行動の難しいところではある。今後の関係修復を期待したいものだ。


PM8:00、テントに潜り込み、寝支度をする。自宅でなら、下着1枚になって布団に入れば良いが、此処ではそうは行かない。昨夜の経験から、冬用のラクダのシャツを取り出して着用し、その上から冬用のスポーツ・ウエアを着込んだ。


「これなら万全であろう、もしかしたら、暑くて汗をかいてしまうかな」と心配したが、心配は無用であった。これだけ着ても、まだ暖かいとまでは、いかなかった。この先、標高が高くなって来ることを考えると、心配である。


PM8:30、寝具と格闘した後、就寝。川を流れる水音が大きく、気になる。テントは川岸から10mぐらいの所に張ってある。豊富な水量はキャンプ場に流れ込むのに、僅か30cmの高さまで、水かさが来ている。その水が、滝のような音で流れているのである。雨が降って、急に水量が増しても大丈夫だろうか?


滝のような水の音(ジェティ・オグズ)


8月10日(金)イシク・クル湖


AM5:00、起床。衣類を真冬用から春秋用に着替えて、テントを出る。これで、午前10時を過ぎると、半袖、半ズボンの夏用に衣替えをする。1日に何度も小まめに調整するしかない。数十分間、ポメラを叩き、パッキングに移る。


AM6:00、朝食。シリアルとコーヒー。

AM7:00、出発。遠くに氷河をかぶった山の峰々が見え隠れしているが、カメラに収めることは難しい。私のカメラは私の目ほどの解像度は、持ち合わせていないらしい。


        
遠くに氷河をかぶった峰々が(ジェティ・オグズ付近)


AM8:00、トラック・バスの給油と給水。給水ホースが細く、タンクを満たすのに時間が掛かっている。この間に私は、カザフスタンのアルマティから合流した人々9人に、それぞれの名前を書いてもらった。


1,ROBERT ロバート アメリカ人、タイランド在住、70

2,TERRY テリー イギリス人、タイランド在住、70歳。ロバートの友人。おしゃべりが好きで、1日中、誰かを捕まえてしゃべっている。


3,KIM キム 米国、フロリダ在住、54歳でリタイヤし、ボランティアに従事。一人息子が居る。

4,ABBY アビー 米国、シアトル在住、26歳、ドクターでインターンを終えた。HIVの研究をしている。


5,ERNA エルナ オランダ人、53歳、障害者教育。

6,DIDI ディディ オランダ人、64歳、ソーシャルワーカーの教育者。エルナの旅行友達。


7,JEAN ジョン フランス人、ニュージーランド在住。71歳。往年は菓子職人。

8,SUZANNE スザンナ ジョンの妻、70歳位。往年は牧場を運営。

9,MICHELLE ミシェル スコットランド、アバディーン在住、34歳。ボーイフレンド(36歳)の話が良く出てくる。


AM8:50、トラック・バスの発車。

AM9:00、突然の停車。トラック・バスの修理に取りかかる。


トラック・バスの故障(イシク・クル湖付近)


馬上の人(イシク・クル湖付近)


AM12:00、道端に停車したまま、ドライバーのジョノが油にまみれて修理を試みているが、見通しは付かないようだ。近くからメカニックの男性が応援に現れたが。


我々は、道端で緊急のランチに取りかかる。と言っても、パスタを茹でて、作り置きのソースに混ぜるだけ。それでも無いよりはましだ。


PM3:00、トラック・バスはのろのろと動き出したが、またすぐに止まってしまった。ちょうど、イシク・クル湖の湖水浴のできる場所だったので、殆どの人が泳ぎに砂浜へ降りて行った。対岸は霞んで見えない。この湖が「キルギスの海」と言われる所以であろう。岸辺には大小の石が転がっているが、これは、その昔、氷河によってもたらされた物と思われる。

イシク・クル湖


キルギスの海(イシク・クル湖)


岸辺には大小の石が(イシク・クル湖)


PM5:30、トラック・バスは、依然として止まったままだ。エンジンが掛からないし、掛かってもすぐに止まってしまう。リーダーのニンカは、次のように決断した。つまり、「他の乗り合いバスをチャーターし、今夜の目的地へツアー客を運ぶ。その間にトラック・バスを、ビシュケクへ運んで修理する」と言う方法である。


PM7:00、我々は2台の乗り合いバスに分乗し、今夜のユルト・キャンプ場へ到着。バスから降りて、移動式住居のユルタに向かう時、若い女性から「日本の方ですか」と、声をかけられ、私は驚いた。


話を聞くと、彼女の名前は「スルガ」、25歳、4人兄弟の長女。日本の筑波大学に1年間留学の経験があり、現在は、ビシュケキにある、キルギスの国立大学で日本語を教えている。彼女の日本語は、流暢ではないが、会話には全く問題がない。


今日は学校が夏休みなので、実家でお手伝いをしている。父親(45歳)を紹介されたが、彼は友人たちと、名古屋に10日間滞在したことがあるという親日家である。彼女が日本語に興味を持ち始めたきっかけは、JICAとの遭遇であった。

彼らの振る舞いから、日本に関心を持ち始めたそうだ。日本への留学は、日本側の奨学金で賄えた。自分の大学からは、4人が留学し、いずれも筑波大学の寮で1年間生活した。私は、思わぬ所で久しぶりに日本語の会話ができ、嬉しかった。


PM8:00、夕食。キルギス伝統の食事か、全体的にとてもバランス良く構成されていて、我々も楽しむことが出来た。特にトルコ人のセブギは、トルコ料理と似ていると言って喜んでいた。私は、特に前菜に出されていた、干しぶどうとお茶を美味しく感じた。 
 

ユルトで夕食(イシク・クル湖付近)


食事中に、長女から質問されていた件について、聞いてみた。それは86日、ビシュケキのアラ・アルチャ自然公園でユルタに寄り、お茶を飲みながら、写真を撮った中に写っていた肖像画の人についてである。


通訳として我々の世話をしている青年の話では、その肖像画の人は、「キルギス民族の英雄、マナス王である。キルギスの初代国王で、1000年ほど前の人である」と言うことであった。


PM10:00、就寝。1つのユルトに7人の雑魚寝で、地面に絨毯を敷き、その上に布団を敷いたものだから、背中に凸凹を感じるが、布団は暖かく、久しぶりに熟睡できた。

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